こじまさんぽの「ストーリー」「ジーンズ」「ものづくり」です

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ジーンズジーンズ

  1 章:国産ジーンズ発祥の地、児島

1 章:国産ジーンズ発祥の地、児島
~ブルーに満ちた神秘的な国、日本~
1890年、海外との橋渡し役を担った作家、パトリック・ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は開国間もない日本に降り立ち、その海・空・町の青に酔いしれた。江戸幕府の発令した奢侈禁止令(しゃしきんしれい)により、派手な色彩やデザイン・素材までもが限定されていた庶民の間で、古来より伝わる綿藍染めの技術が飛躍的に発達した日本。八雲が下船した明治時代には、商店の暖簾から町人の着物・寝具・うちわや手ぬぐいといった小物まで濃淡様々な色調の青で染め上げられていたという。染物屋を紺(藍染めの代表的な色)屋と呼ぶほど、染物と言ったら青だったのだ。「紺屋の白袴」という諺もある。他人のために忙しく働いて自分の事をする暇がないことの意だが、当時の紺屋さんの賑わいがザワザワと聞こえてくるようなユーモラスな表現だ。

国産ジーンズを日本で初めてつくった児島。半世紀にわたる研究開発の歴史と、日本人ならではの繊細な仕事が織りなす“Made in Kojima”ジーンズは、トップクラスの品質を誇る。国産ジーンズを日本で初めてつくった児島。半世紀にわたる研究開発の歴史と、日本人ならではの繊細な仕事が織りなす“Made in Kojima”ジーンズは、トップクラスの品質を誇る。現在では日本にとどまらず、世界各国のブランドから注文が殺到している。デニム生地発祥の地、そして語源ともなっているフランスの「ニーム市」との交流を深め、今や児島はシリコンバレーならぬ、「デニムバレー」とも呼ばれている。「デニムジーンズ科」のある専門学校もあり、県外からも熱い志をもった生徒が集まっている。

2011.10.29に『デニム航海路2011「ニームから倉敷へ」スペクタクルモード in 倉敷』が倉敷市「美観地区」で開催された。

かつて綿織学生服で全国をほぼ独占していた児島。最盛期には日本の学生服の9割が児島産であった。だが、合成繊維の登場により、国内メーカーの系列化が始まった。児島ならではの地域一貫生産体制が崩れ始めた。合成繊維素材は、国内メーカーから販売許可がおりた企業しか扱えなかった。しかし、卸のニーズはテトロン生地の制服。「○○製の生地でないと売らない」となっていた。そこで系列化にあぶれた児島の中小企業は「ジーンズ」に活路を見出したのだ。

国産ジーンズを日本で初めてつくった児島。半世紀にわたる研究開発の歴史と、日本人ならではの繊細な仕事が織りなす“Made in Kojima”ジーンズは、トップクラスの品質を誇る。時代は戦後、統制によりモノクロな世界となっていた日本では、まるで抑えていたものが溢れでるように、生活に色が戻ってきていた。とはいえ、素材不足によりろくな衣服が手に入らなかったため、闇市で購入した様々なカラーの米軍古着が人気をはくしていた。そこに、ジーンズがあった。鉱山労働者の作業着にとつくられたものだったので、驚くほど丈夫で、汚れが目立ちにくく、なんといってもなじみ深い青色だった。繊維のまちとして学生服に代表される長い歴史と技術、販売網に優れていた児島。ジーンズも自分たちでつくれるに違いないと先人たちは考えた。

しかし、想像以上に険しい道であった。なぜなら、まったく何もないゼロからのスタートだったからだ。まず、ジーンズをバラしパーツごとに分解した。思いもよらない数のパーツで、立体的に縫製されていたことがわかった。そして、中白と呼ばれる独特な染めで味のある青をだしていることがわかった。当時は何度も研究を重ねたが、結局中白に染める方法がわからなかった。しかも、「ジーンズの青」がなんとかだせたとしても、「ジーンズの厚さ」の生地は当時の日本に存在しなかった。学生服に使われる生地の厚みの約2倍ほどとなる14オンス(ファッション用は11~12.5オンス)という厚さ。そのような生地を織ることのできる織機はなかった。そこで政府にかけあい、生地を輸入することにした。だが、いざ縫おうとすると、今度はミシンが壊れた。デニム生地を縫うことのできるパワーと針を備えたミシンがなかった。開発を試みるも、うまくいかない。そこでミシンも輸入した。そしてようやく1965年、最初はすべてを輸入し、日本初の国産ジーンズが誕生した。

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