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下津井

  2章:交通の要=経済の要をになう

2章:交通の要=経済の要をになう

交通の要=経済の要をになう児島下津井地区。児島駅前から鷲羽山を越えた場所に位置する地区。そもそもコミュニティーの発展には交通状況が強く反映される。昔から栄える場所というのは、交通の要所で、人も物資も豊富な場所であった。瀬戸大橋がかかる以前、海運がメインの交通手段であった長い間、児島の中心、それどころか西日本の経済に大きな役割を果たしていた地域が、ここ下津井地区である。

 

北前船

交通の要=経済の要をになう大きな土木工事など出来なかった江戸時代、下津井港は天然の入り江を利用した最良の港だった。北前船や参勤交代の御座船が下津井港に寄港していた。最大で80を超える大船団が入港したという。北前船は鰊粕(ニシンカス:綿花畑の肥料となる)を売り、綿製品を買い上げていった。今でも大きな旧鰊蔵が残っているが、さすが金肥と呼ばれていただけあり、金庫のような厚みのある扉だ。単なる素材としての綿だけではなく、綿織物として製品化して売ることで、児島の繊維業はさらなる発展をとげる。この北前船というのは現代のわたしたちには想像を絶するハイリスク・ハイリターンの商売(無事に運行できれば億単位の稼ぎも可能、ただしとにかく沈む)で、船員たちはいつの日が終わりとも知れぬ人生を悔いなく豪快に生きた。その豪遊ぶりは江戸にも知れ渡ったという。動力を積んでいないこのシンプルな作りの帆船の風待ち・潮待ちの湊として、船員たちをまかない、下津井は宿場町としておおいに発展した。全国でも有名な下津井節は、この華やかな時代の御座敷唄であった。この北前船の寄港も関係し、曽原地域では帆布の生産も盛んとなった。

そして江戸時代も後半、庶民の暮らしに大きな変革があった。それまで大名などに限られていた神社の参詣が、庶民層にまで広がってきたのだ。本土と四国をつなぐ児島は、金毘羅参詣をする旅人の宿場町としてもにぎわう。いつの日からか、「金毘羅大権現だけではなく児島の瑜伽大権現と両参りをすると御利益が高まる」といわれるようにもなる。そして、参拝客の土産ものとして、児島の小倉帯・真田紐が全国に名を知られることになる。これが後の学生服企業の前身となり、児島が繊維のまちとして発展していくための土台は下津井の海運業によってつくられたのだ。

とにかく、北前船に参拝客、足の踏み場もないような賑わいの中、大名が宿も見つけられずに困ったという話が伝わっているほど下津井は栄えていた。「その有り様、岡山城下をしのぐものあり」と当時の旅人は感じたという。さて、その下津井地区も今ではのどかな港町。とはいえ、常夜灯や雁木が一部残っており、街中には江戸時代に回船問屋や遊郭が軒を並べた頃の面影が残り、岡山県によって町並み保存地区に指定されている。当時金融業を営んでいた豪商荻野家が改装され、「むかし下津井回船問屋」として当時の資料を多数展示している。
むかし下津井回船問屋

 

下津井軽便鉄道

交通の要=経済の要をになうさて、産業革命以降、海運から陸運に世界はシフトしていくこととなる。下津井も陸運を強化。1914(大正3)年には下津井軽便鉄道が全線(下津井~茶屋町21km)開通し、製品の運搬や観光客の輸送がスムーズになると、よりいっそう児島の繊維産業は栄えた。特徴はナローゲージのすっきりしたボディ。港町ならではの鮮魚台つき車両や、冷房完備車両、デッキつき車両、広告電車に、落書き電車。ローカル私鉄ならではの、創意工夫にあふれたかわいい車両が走っていた。だが、これも自動車の普及と瀬戸大橋の開通により徐々に寂れていくことになる。そして、ついに1990(平成2)年、惜しまれながらも全線廃止となる。
今は路線跡の一部、児島~下津井区間約6㎞が舗装され、「風の道」として整備が行われ、サイクリングやウォーキングを楽しめる道として開放されている。木々薫る鷲羽山から眺める瀬戸内海から眺める瀬戸内海の景色の美しさは日本一と言っても過言ではない。またこの道をナローゲージの可愛い電車が通っていたのだなあと、思いをはせながら優しい時間を過ごしてほしい。
当時の車両は現在、みなと電車保存会により、旧下津井駅にて保存されているため、目にすることもできる。
下津井みなと電車保存会

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